「ペットは家族」「大切な家族の一員」「我が子です」と感動的な美談として日々取り上げられ、今やあまりにも当たり前の、そして疑う余地のない真実であるかのように思えるかもしれません。
しかし、その言葉を耳にするたびに、どこか胸の中に引っかかるような、拭いきれない不自然さや違和感を感じたことはないでしょうか?
それは単なる飼い主の自己満足や、ペット関連業界の利益追求、そして時に社会への無責任な要求になってしまってはいないでしょうか。
この記事で私たちは、「ペット(犬)は家族」という聞こえのいい言葉が、本当に犬たちの幸せを心から願って使われているのかどうかを問い直したいと思います。
「ペットは家族」を声高に叫ぶ飼い主たちの「私欲」
ペットを大切に思う気持ちは、決して否定されるべきものではありませんし、家族の一員として接して生活することは、ペットにとってもQOL(生活の質)の向上となるでしょう。
しかし、なぜ飼い主たちは、わざわざ他人に「家族だ」「我が子だ」と声高にアピールする必要があるのでしょうか?
当のペットの犬には理解できないにもかかわらず・・です。
単に「大切なペット」や「大切な愛犬」という表現では不十分なのでしょうか。
ペットを「家族」と呼ぶことによって、社会的なイメージの向上や、周囲からの共感を得たいという潜在的な心理が見え隠れしているように思えてなりません。
「こんなにも深く動物を愛する自分」という自己肯定感や、他者からの「優しい人」という評価を得たい、あるいは、そう呼ばれることで自身の孤独感を埋めたいという「私欲」が、この言葉の背景にある可能性は否定できないでしょう。
また、「ペット産業や購入者にとって不都合な真実」を覆い隠すような意図を感じずにもいられません。
「ペットは家族」を盾にした「権利の拡大」と「責任の押し付け」
「ペットは家族」という言葉は、しばしば人間社会のルールを都合よく曲げたり、他者に負担を強いたりするための「盾」として使われることがあります。
たとえば、以下のような例
・うちの愛犬は家族だから、どこでも一緒にいたい
・家族だから、仕事よりも犬の介護を優先したい
こういった主張は、一見するとペットへの愛情の表れに見えますが、同時に、人間社会の秩序や、ペットを飼わない人々の権利を軽視し、不便や責任を押し付けている傲慢さではないでしょうか。
もちろんペットを大切に想う気持ちは理解できますが、飼わない他人にとってはデメリットしかなく、自分が迷惑をかける立場だということを忘れている人が多いように感じます。
他人に「ペットは家族」とアピールすることは、家族なんだから自分が責任を持つという意味であるべきはずですが、他人にも責任を背負わせる言葉になっていないでしょうか?
ネット上では、以下のような傲慢ともとれるコメントを度々目にすることがあります。
「うちの愛犬は、他人の子どもより大切な家族だ。行政は同伴避難できるスペースを確保しろ!」
「仕事よりも大切な家族なんだから、休むのは当然でしょ!認めない会社はおかしい!」
ペットに関心のない人が、こんな人たちを受け入れたいと思うでしょうか?
それどころか、印象を悪くして、反発を招く原因になりかねませんよね。
「家族だから」という感情論を振りかざして、関係のない人々にまで負担を強いる行為は、果たして本当に「家族愛」と言えるのでしょうか。
ペット(犬)を「モノ扱いしているのは誰なのか?」
犬が虐待されたり、死んでしまったりする痛ましいニュースが報じられるたびに、そのコメント欄には「ペットは家族だ、モノ扱いするな!」という声が溢れます。
しかし、「ペットは家族」と同様によく使われるこの「モノ扱いするな!」という言葉も、ペットショップなどでお金で購入する買い主が使っているとしたら、大きな矛盾を感じずにはいられません。
なぜなら、日本の犬の多くは、パピーミル(子犬工場)で生まれたのち、商品として売買されるシステムを経て、飼い主のもとへやってくるのが現状だからです。
産む機械にされた親犬から生まれた子を金で買い、親や兄弟から引き離して育て、さらに子供を産めない体にする。
命だと認識し、その尊厳を尊重する人は、生命倫理に反するこのようなシステムに加担することはできません。
にもかかわらず、それを平気で行う人たちが、「日本の法律は遅れている!いつまでもモノ扱いするな!」と叫ぶ。
どれだけ自己中心的な考え方なのだろうか、と思わざるを得ません。
「一部モノ扱いが許されているから、お金で購入することができる」という、ごく当たり前のことすら理解できていないのか、都合が悪いから気づかないふりをしているのか。
「モノ扱いをやめろ」と叫ぶのなら、売買に関わる人たちが「売らない」「買わない」から始めるべきではないでしょうか。
「ペットは家族」は業界が仕掛けたキャッチコピー!?
2000年代後半以降、犬の飼育頭数が減少傾向にありますが、これは少子高齢化や集合住宅の増加、飼育にかかる費用の高騰など、様々な要因が絡み合った結果だといえるでしょう。
そんな中、1兆円を超える巨大市場を持つペット産業が、この状況を黙って見ているはずがありませんよね?
市場縮小への危機感を抱いた業界は、新たな戦略を必要としていた。
そこで登場したのが「ペットは家族」という強力なキャッチコピーではないでしょうか?
ペットを「家族」と位置づけることで、飼い主は犬に対してより多くの、そしてより高額な支出を躊躇しなくなります。
プレミアムフード、高度な医療、手厚いペット保険、トリミングやホテル、さらにはペット葬儀など、人間向けのサービスと遜色のない商品やサービスが次々と生み出され、飼い主はこれらを「家族への愛情表現」として惜しみなく購入するように。
これにより、たとえ飼育頭数が減少しても、一頭あたりの支出額を大幅に増やすことで、ペット市場は規模を維持し、さらには拡大し続けるという、業界の巧みな戦略が展開されたというわけです。
実際に飼育数に反比例して、市場は拡大していますよね。
「ペットは家族」ほど、購買意欲や飼育欲を刺激される言葉はないのです。
ネットの普及が後押しした「罪悪感の払拭」と「風潮の拡散」
同時期、保護活動の活発化や殺処分問題の顕在化により、動物愛護への関心が高まり、ペットショップで「お金を払って命を買う」ことに対する飼い主の罪悪感が、社会全体で高まっていました。
犬を紹介するときに「うちの子は保護犬です。」という人が増えはじめたのも、この時期です。
このタイミングで「ペットは家族」という言葉が提供されたことは、まさに画期的でした。
「金で買った」という事実が、あたかも「家族として迎え入れた」という崇高な行為であるかのような美談へと変換される、非常に便利なツールとなったのです。
「保護犬です。」という人に対抗するかのように、「売れ残りです。」という言葉で、自分も救う側の人間であることをアピールする人も一気に増えました。
さらに、スマートフォンの普及とSNSによる情報拡散は、この「ペットは家族」という風潮を爆発的に広め、社会の「当たり前」として定着させたのです。
結果として、飼い主は自己肯定感を得られ、業界は収益を維持拡大できるという、いわば「共犯関係」が形成された構図が完成したわけです。
あなたが「金で買った家族」の「本当の家族」はどこに?
もしあなたがペットショップで子犬を「家族」として迎え入れたのなら、その子犬の「本当の家族」はどこにいるのか、考えたことはありますか?
その子犬が生まれた場所は、多くの場合、劣悪な環境の「パピーミル(子犬工場)」と呼ばれる繁殖場です。
そこでは、母犬が強制的に何度も妊娠させられ、生後間もない子犬たちは親や兄弟姉妹から略奪され、ガラスケースの中に並べられて商品として無責任に売られていく。
これが、あなたが「我が子」と呼ぶ犬の、残酷なまでの「誕生の真実」です。
劣悪な環境でただ出産のためだけに生かされ、商品としての価値がなくなれば使い捨てにされる繁殖犬、劣悪な環境や長距離移動、親から引き離されたストレスや感染症に苦しみ、死んでしまう子犬たちも数知れません。
そんなシステムを平気で利用する人が、まるで”自分は犬想いの素敵な人間です”と言わんばかりに「ペットは家族」だと、誇らしげに自慢している世の中、おかしくないですか?
「ペットは家族」は動物福祉に反する行為の免罪符ではない
「ペットは家族」という言葉は、時に金銭による生体取引の罪悪感を曖昧にする「免罪符」として機能していないでしょうか。
無理に産ませて奪い取った子をお金を払って買い、「家族として迎え入れた」という美談にすり替えることで、その背景にある動物福祉に反する行為から目を背けていないでしょうか。
「家族」と呼びながら行う去勢・避妊手術もまた、犬自身の繁殖能力を奪い、その命のバトンを断ち切る行為で、犬本来の生物としての尊厳を奪うことにも繋がります。
たしかに現実的に考えれば、すべての犬が子孫を残すことは不可能ですが、それは人間都合であることを忘れてはいけません。
病気予防やストレス軽減の為、犬の為と言ったところで、手術のために数百分の一の確率で死んでしまう可能性のある全身麻酔を受けさせる矛盾を、誤魔化すことはできないのです。
「家族」という言葉は、決して安易な飼育や、犬の生物としての尊厳を無視した行動を許容するための「免罪符」ではありません。
「擬人化」するなら、その残酷な現実も擬人化しろ
もしあなたが「ペットは家族」「我が子同然」と犬を擬人化して美化するのなら、その犬たちが直面している残酷な現実も、同じように人間の家族に置き換えて考えてみるべきではないでしょうか。
強制妊娠 → 不同意性交罪
意思とは関係なく、何度も無理やり妊娠させられること。
親からの略奪 → 誘拐罪
生後間もない幼い子が、母親から引き離され、見知らぬ場所へ連れて行かれること。
生体販売 → 人身売買罪
商品として値段をつけられ、ショーケースに並べられて売買されること。
強制避妊 → 傷害罪
強制的に、生殖機能を切除され、生涯の繁殖能力を奪われること。
これらの行為が、果たして「家族愛」の名の下に行われるべきことでしょうか?
同じことが、人間に対して行われたらどう感じるでしょうか。そこにあるのは、倫理も道徳もない「命を弄ぶ行為」であり、弱者に対する「虐待」です。
そのくせ、犬が死んだら「亡くなった」と表現し、ペットの葬儀屋ビジネスに加担し、同じ墓に入りたいという。
同時に、かけがえのない存在と言っていた犬の代わりに新しい子を迎えることを考え、「あの子の代わりではない、新しい子を幸せにしてあげたい」という決まり文句で予防線を張って、ペットロスを癒すために新しい子を迎える。
あまりにも自分に都合がよすぎませんか?
まとめ:あなたの犬への愛情は、誰のためのものですか?
「ペットは家族」という言葉が、いかに多くの矛盾と犠牲の上に成り立っているかを、私たちは再確認しました。
飼い主が盲目的にこの言葉に踊らされ、自身の行動や消費が、知らず知らずのうちに犬たちの苦しみを助長している可能性も否定できません。
心の中でどれだけ犬を愛しているかなど、他人は知る由もありませんし、興味もありません。本当に犬を愛しているのなら、その感情を言葉の表面的な美しさではなく、具体的な行動で示すべきです。
保護犬を積極的に受け入れる選択をする、終生にわたって責任ある飼育を行う、犬の特性と習性を深く理解し尊重する、そして安易な生体販売に加担しない。
こういった具体的な行動こそが、真の愛情の証となります。
犬本来の家族の絆を尊重し、人間中心の都合のいい「家族」の定義を見直すこと。美談の裏に隠された犠牲に目を向け、犬たちが人間にとっての「家族」である前に、一匹の尊い命であることを再認識する。
それこそが、人間と犬が真に共生できる社会を目指すための、私たちに課された使命なのではないでしょうか。
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