動物愛護の精神が広がり、保護活動が盛んになる一方で、生体販売に反対する声も日に日に大きくなっています。
こうした動きが加速する中、私たちはふと疑問に思うことはないでしょうか?
行き場を失った命を救い、献身的に支える「保護犬の飼い主」と、ペットショップで「かわいい」という理由で衝動的に犬を購入する「愛玩犬の買い主」。
どちらも同じ「犬の飼い主」として一括りにされてしまうことに、違和感を覚えるのは私だけではないはずです。
犬を家族として迎え、共に暮らす人々の中には、実は真逆の思想と行動原理を持つ二種類の「犬を愛する人々」が存在します。
この二者を同じ「犬好き」として曖昧に扱うことは、犬の命や尊厳を巡る問題の本質を見えなくし、延いては社会全体の動物福祉を混乱させているのではないでしょうか。
多くのメディアがタブー視する背景には、ペット産業への忖度も見え隠れします。
本記事では、この「保護犬の飼い主」と「愛玩犬の買い主」を明確に区別することの重要性について、深く考察していきます。
「犬を救う人」と「命を弄ぶ人」:真逆の存在
私たちは、この二種類の「犬を愛する人」の間に、大きな隔たりがあることを認識すべきです。
「保護犬の飼い主」は、人間の都合によって生まれた悲劇の連鎖を断ち切ろうと行動します。彼らは、劣悪な環境から救い出された犬、捨てられた犬、あるいは行き場を失った犬を文字通り「迎え入れ」ます。
その過程では、心身に傷を負った犬たちを辛抱強くケアし、社会性を身につけさせるために時間も費用も惜しみません。彼らの行動は、命の背景にある苦しみに真摯に向き合い、その生涯を最後まで「救い、全うさせる」ことを目的としています。
その「迎え入れる」という言葉には、深い責任感と愛情が込められているのです。
対して、私たちが問題視するのは、自身の欲求を満たすために命を「購入」する、一部の「愛玩犬の買い主」です。
彼らは「可愛いから」「癒やしが欲しいから」といった動機で、ペットショップや一部のブリーダーから子犬を安易に購入しがちです。
その行動の裏には、過剰な繁殖、劣悪な飼育環境、売れ残った犬のその後の運命、そして流通過程で命を落とす子犬たちの存在といった、「生体販売」の深い闇が横たわっています。
しかし、多くの買い主はこうした現実に無自覚なまま、「新しい家族を迎えました」「幸せにしてあげたい」といった美しい言葉で、自らの購入行為を美化しているかのようです。
彼らの行動が、結果的に不幸な犬を生みだしている一因となっていることを考えると、彼らの行為が「命を弄んでいる」とまで言える可能性があることに目を背けてはなりません。
社会の曖昧さが招く混乱:子どもたちへの影響
現状の社会では、保護犬を迎え入れる人も、ペットショップで犬を購入する人も、一様に「犬好き」「動物愛護精神のある人」として扱われがちですが、この曖昧な認識が、真の動物愛護と、単なる消費者行動との区別をつけにくくしています。
特に懸念されるのは、子どもたちへの悪影響です。
もし大人がこの区別をせずに振る舞えば、子どもたちは「可愛がって遊ぶ」という表面的な愛情が、犬への「本当の愛情」だと誤解しかねません。
命が誕生する背景や、その過程で犠牲になる犬たちの現実から目を背けさせる結果にも繋がりかねないのです。
「命はお金で買うもの」という価値観を無意識のうちに植え付けてしまわないか、という強い懸念を抱かずにはいられません。
だからこそ、私たち大人には責任があります。
子どもたちに対し、売買の背景で犠牲になっている犬の存在に目を向けさせる「本当の愛情」を示すべきではないでしょうか。
命の尊厳とは何か、責任とは何かを教えるためには、この曖昧な状況を放置してはならないのです。
明確な区別がもたらす変化と未来
「保護犬の飼い主」と「愛玩犬の買い主」を明確に区別することで、社会は何を変えられるのでしょうか?
まず、生体販売問題への意識が飛躍的に向上するでしょう。犬を「買う」という行動が、命の生産・流通の背景に直結しているという認識が広まれば、安易な購入は減少するはずです。同時に、真の動物福祉への理解が促進され、単に「可愛い」から飼うのではなく、命への責任と倫理観が強く求められるようになります。
さらに、行き場のない犬たちの存在がより広く認識され、保護活動への関心が高まり、譲渡を求める声が増えるはずです。
そして何より、子どもの教育に大きな効果をもたらします。命の尊厳や責任について、より深く学ぶ機会が与えられることでしょう。
「購入」ではなく「譲渡」を推奨する社会への転換こそが、私たちの目指すべき方向性ではないでしょうか。
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