「愛犬家」とは何でしょうか?
犬を可愛がってる人ですか? 血統書付きの犬を飼ってる人ですか?
辞書で引くと、犬を愛する人や犬を飼っている人、または犬を飼ってはいないけれど犬を愛好する人、などと書かれていることが多いと思います。
しかし昭和から令和にかけて、時代が移り変わるにつれて、犬を取り巻く環境も大きく変化しましたよね。
時代の変化
・小型犬だけでなく中型犬や大型犬も室内で飼うのが当たり前に
・番犬としてよりも癒し目的が主流に
・動物愛護法や殺処分問題が注目されるように
・保護活動や譲渡活動が盛んに行われるように
・保護犬という言葉が当たり前に使われるように
・販売業者へのマイクロチップの義務化
・飼育放棄は減ったが里親サイトの登録が増える
・ペットは家族という風潮に
その他にも、避難所の同行避難問題や、犬カフェ、葬儀といったペットビジネス、ペットと一緒に旅行したり宿泊するペットツーリズムという言葉も、目にすることが多くなりました。
こういった変化に伴い、犬に関わる人も多種多様になってきたわけです。
・保護活動などのボランティアをする人
・保護犬を救う為に飼う人
・ペットショップから買う人
・ブリーダーから買う人
・犬種優先、幼さ優先で選ぶ人
・あえて繁殖引退犬などを選ぶ人
・ペットと割り切って飼う人
・家族同然だと溺愛して飼う人
これ以外にも、ネットの普及によって、SNSで発信する人や動画で稼ぐ人など、昔には見られなかった人たちが・・。
みんなが自分を愛犬家だと認識しているのが現状だと思います。
しかし、これらの人たちを一括りにして愛犬家と呼ぶことに無理がある時代に来ているのではないでしょうか?
目の前の犬を可愛がっていれば愛犬家ですか?
一目惚れです!、家族です!とアピールすれば愛犬家ですか?
生体販売に反対すると反論してくる人が愛犬家ですか?
個人的には、「本当の愛犬家」というのは、飼育者の中に半分もいないと思っています。
愛犬家を自称する人の大半が
自分が癒されるために犬を飼い、自分が飼育することが何よりも大切で、そのくせ自分が愛犬家だと思われないと気が済まない偽善とエゴの塊。
ですよね?
特に、ペット文化による犠牲に一切関心を持たない自称愛犬家たちに至っては、嫌悪感すら感じます。
愛犬家とは何なのか?
時代に合わせたアップデートが必要な時期がやってきたのではないでしょうか。
いつまでも、、自分の為に犬を利用する飼育愛好家や、ペットビジネスに関わる人たちにとって、都合のいい言葉であってはなりません。
令和の時代「真の愛犬家」の定義とは何なのか?
かつて「犬は人間の最良の友」と言われ、私たちの生活に喜びと安らぎをもたらしてくれる存在として、常にかけがえのないパートナーであり続けてきました。
昭和、平成と時代が移り変わり、犬との暮らし方も多様化する中で、令和の現代において「真の愛犬家」とは一体どのような人物を指すのでしょうか。
私たちは、このように定義付けました。
令和の時代の真の愛犬家とは
1. 信念を持って、すべての犬を大切に想える人
2. 可愛がるだけでなく命や尊厳を尊重できる人
3. 人間との共生を理解し、飼い主としての義務を果たす人
単に犬を飼っているだけでなく、その命と真摯に向き合い、共に幸せな日々を送るために何が求められるのか。
社会の変化、世界の動向、科学の進歩、そして私たち自身の意識の変容を踏まえながら、令和という新しい時代における「真の愛犬家」の定義について深く考察していきたいと思います。
1、信念を持って、すべての犬を大切に想える人
根本的な部分ですが、あなたは「自分は愛犬家である」と自信を持って言うことが出来ますか?
「愛犬家」と自らを称するならば、そこに確固たる信念がなければなりません。
例えば、「保護犬を迎え入れたかったけれど、譲渡条件が厳しかったから仕方なくペットショップで買った」という人の話を耳にすることがありますよね?
一見、合理的な選択のように聞こえるかもしれませんが、本当に犬の命を救いたいという信念があったのなら、その行動が結果として、不幸な命を生み出す可能性のあるシステムに加担することになるという矛盾に気づくはずです。
「仕方がない」という安易な言い訳は、自身の信念の欠如を露呈しているにすぎません。
「愛犬家」という言葉は、自分の為に都合よく使う言葉であってはならないのです。
目の前の可愛さだけにとらわれず、すべての犬の幸福を願い、ブレない軸を持って行動し続ける。それが、令和の時代に求められる「真の愛犬家」の、揺るぎない第一歩だといえるでしょう。
2. 可愛がるだけでなく命や尊厳を尊重できる人
犬を「可愛がる」ことは、愛犬家にとってごく自然な愛情表現ですが、真の愛犬家には、その感情的な側面を超え、彼らの命と尊厳を深く理解し、尊重する視点が求められます。
例えば、去勢・避妊手術の選択は、その代表的な例と言えるでしょう。
病気の予防や問題行動の抑制といった人間にとってのメリットがある一方で、犬が持つ生命本来の目的である繁殖の機会を奪う行為であることにも、私たちは真摯に向き合うべきです。
「犬のためだから」「してあげる」という言葉の裏には、「飼いやすい」という人間の都合や自己正当化が潜んでいることが少なくないですよね。
去勢後、体に違和感を感じている飼い犬の姿に、ほんわかしたBGMを添え、まるで可愛いハプニングのように演出した動画を投稿するような飼い主や、無邪気に「可愛い」とコメントするような視聴者をみると、ただただ怒りがこみ上げてきます。
全身麻酔で死んでしまう可能性だってあったのに、あまりにも不謹慎と言わざるを得ません。
「してあげる」という上から目線ではなく、犬という個の生命体としての尊厳を深く理解して、「大切な命に対し、人間の都合でこのような処置を施させてもらう」という謙虚な姿勢こそが、真の愛犬家にふさわしい態度と言えるでしょう。
3. 人間との共生を理解し、飼い主としての義務を果たす人
「人間と動物の共生」という言葉を耳にすることが増えましたが、その真の意味を都合よく解釈するケースも少なくありません。
特に、犬を商品として扱い、繁殖・売買する行為は、真の共生とは明確に区別されるべき。
共生は「強制」であってはならないのです。
真の共生とは、お互いを尊重し、共に生きる関係性を指します。産ませては引き離し、売り買いの対象とする行為は、この共生の理念からは大きくかけ離れています。
さらに、人間社会で犬と共生していくためには、飼い主として果たすべき法的・倫理的な義務を全うすることが不可欠です。
適切な飼育環境の提供、日々の健康管理、社会性を育むためのしつけ、そして万が一の事故に対する責任を怠る飼い主は、犬の価値を貶め、人間と犬の信頼関係を損なう存在であり、「愛犬家」と呼ぶのにふさわしくありません。
犬を登録すらしていない、狂犬病予防法の接種を無視する、注射済票を装着しないような飼い主は、愛犬家どころか、犬を飼う資格すらない、狂犬病予防法違反の犯罪者です。
他にも、ノーリードに糞尿被害、近所への騒音など、飼わない人に配慮できない人に「愛犬家」を名乗る資格はありません。
社会の一員として、犬との調和を積極的に築こうとする姿勢こそが、令和の時代に求められる愛犬家の姿なのです。
まとめ:令和の「愛犬家」は、犬を「愛する」からこそ、責任を全うする人
昭和から平成、令和へと時代が移り変わり、犬と人間の関係性、そして犬を取り巻く環境は大きく変化しました。
単に犬を可愛がるだけでは「愛犬家」と名乗ることが難しくなった今、令和の時代に求められる「真の愛犬家」とは、もはや自己満足やエゴで犬を飼育する人ではありません。
私たちが提唱する「真の愛犬家」の定義は、以下の3つの要素に集約されます。
1、信念を持って、すべての犬を大切に想える人
自分の都合だけでなく、すべての犬の幸福を願い、その信念に基づいて行動できるか。
2、可愛がるだけでなく命や尊厳を尊重できる人
犬を「個」の生命体と捉え、謙虚な姿勢でその命と尊厳を尊重できるか。
3、人間との共生を理解し、飼い主としての義務を果たす人
真の共生を理解し、法的・倫理的な義務を全うできるか。
「愛犬家」という言葉が、すべての犬にとってより良い未来を築くための羅針盤となるよう、この記事が皆様の意識変革の一助となれば幸いです。
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